愛が足りない

2018年8月18日, サンディエゴに向かう機内にて

 (何処でもある話だが) 2006年後半,ある教授との交渉もむなしく,自分の上によそから教授が来ることになってしまう.この辛さは尋常じゃない.よくそういう方をみかけるが,こちらまで心痛くなる.なんでみんなひどいことをするんでしょう.私は,私の不幸なんて小さいものだと思いながら,体が理由もなく熱くなる夜を過ごしたが,なんとか持ちこたえた.その時に支えだったのは,山本先生と何も知らない家族,学生達であった(学生達は私を支えたつもりは毛頭無い).2007年3月23日の写真を見て欲しい.学生に対して愛がないと撮れない写真である.今,この写真を撮れる気がまったくしない. 今,学部と大学院の改革をしているが,まったく蚊帳の外で,怒られそうだが,大学にも専攻にも愛が出ない.みなさん自分たちのことばかりで,学生に対する愛や組織に対する愛を育む改革というのはないのだろうか.先端光工学専攻を作っている時,学生達の事を考え,どういう教育をすれば,学生達が価値の高い人材になるか考えた.大胆な改革は受けいれがたく,私のアイデアは,ことごとく消滅したが,あの一生懸命な感じは私にもう出ないのだろうか.この頃,研究室の学生達がなつかない気がしていた.私の学生とのコンタクト時間が減ったためか,私と学生たちの年齢差の広がりによる感性の差の広がりかと理解していた.昔は,勉強できない学生も,ぐうたら学生も,不登校の学生も,憎たらしい学生も,みんなかわいかった.電子回路の授業では,全員が解るまで,時間を惜しむことなく,ひたすら教えた, 学生がわかるまで再試験を繰り返した.学生も私の所によく質問に来た.今,学生と私との希薄な空気はどうしてだろうか.それでも,時々,かわいい学生がいるのだが,突然,振られてしまう.かわいがりとプレッシャとは紙一重なので,学生はそこからふっと逃げ出すのであろうか.全て頭では解っているのだが,私の愛に最後までつきあってくれる学生はいないのだろうか.答えはわかっている.私が,自分の中の愛を自分でふやさなければいけないことを.



負けられん

2017年8月14日, シンガポールから東京への飛行機の中で

 日本経済新聞に「科学研究で米中接近」という記事があった.アメリカが他国と共同でまとめた論文のうち,多くの分野で中国が1位になっているという内容で有り,それに比べ,日本はいくつかの分野において5位〜13位で,2003〜5年の3位〜10位より落ちたことを示していた.近年,この手の話題が多く,とても悔しい.しかし,一部の人が頑張ってもどうにもならない 総力戦の結果である.一人一人の理系大学教員が,もっとおもろい研究をして,論文バンバン書いて,国際共同研究だってどんどんやっていくしかない.だけど悔しい.



奥さんとかわいらしいお嬢さん

2011年11月24日,やまびこ157号,5号車自由席にて

 19時22分のやまびこの5号車自由席にのった.3席のシートが徐々に埋まっていく程に混んでいた.私は,2席シートの通路側に座っていた.60代の夫婦の夫が4列前の3席シートの通路側,奥さんが5列前の3席シートの真ん中にが席を確保した.

 その後すぐ,その3席シートの通路側に座っていた,10代後半のお嬢さんが,夫婦が隣り合わせになるように,その旦那さんに席を譲った.お嬢さんと言うにふさわしい,優しそうなかわいらしい子であった.その時,その奥さんが,立ち上がって,今買ったばかりであろう,小さなペットボトルを,そのお嬢さんに渡そうとした.お嬢さんは,少し遠慮のそぶりを見せたが,奥さんのにこにこした笑顔の前で,軽く会釈をしながら,そのペットボトルを受け取った.



酒を飲まずにいられない

2011年5月7日, 家


 人間ドックの前日以外はお酒を飲んでいる.コンビニエンスストアで缶ビールを一本買って帰るのが楽しみである.週末には,ポリフェノールが動脈硬化予防があると聞けば赤ワインを飲み,ピュアなお酒の方が肝臓に負担をかけないと聞けば焼酎を飲み,血液サラサラ効果が高いと聞けば梅酒を飲み,小雪のバーに行きた~いと叫びながらウイスキーをロックで飲む.今晩,久しぶりに家で日本酒を飲んだ.「うまい!」「とにかくうまい!」いつかお礼を言う機会があればと思う.

 これは,私がある先生に書いたメールです.「この極めていやな感じだけが残るのはなぜでしょうか.メールのやりとりだけだからでしょうか.心の中にポッと灯りをつけてくれるような学生が居ます.研究ができるとか,素直だとか,そんなのではないのです.ちょっとした言葉だったり,仕草だったり...そんな学生がいると,私のできることはやろう,できれば,彼らの心にも灯りをつけてやろうという気になります.私の活力です.本当は酒でも飲みながら話したいところですが,何かを言わないと気がすまないので,これが,この一連の出来事の感想です.」

 今晩は,一番搾り350mlと角のロック少々.いいこと.いやなこと.酒を飲まずにいられない.



少し先まで行こうと思う

2006年11月18日,鹿児島の宿にて


 子供の頃団地の窓からいつも外を眺めていた.天気が良ければ,筑波山,赤城山,秩父の山々,富士山が見えた.操車場も見えた.東北線と上越線の分岐点なので,貨物がいったりきたりして入れ替えていた.電車がひっきりなしに通過する路線なので飽きることはなかった.4歳頃までは蒸気機関車が走っていた.親父の撮った私の子供の頃の写真に写っていた.操車場の横の道を学校帰りによく通った.通学路ではなかったので違反であったが近道であった.使われていない線路を何処まで落ちないでいけるかチャレンジした.友達の影響で,鉄道写真をとるようになったのは,自然な流れであった.小学校4年3学期のことである.小学校5年生のクリスマス,一眼レフのカメラを買ってもらった.いつの頃からか,鉄道写真だけでなく,お寺の写真を撮るようになった.昔,建築家になりたいなんて思っていたこともあったので,自分は建築物を好きなのかと思っていたが違っていた.そのうち写真を撮らなくなった.高校生の時だと思う.1つだけ覚えていることは,目が悪くなって,それを認めるのがいやだった.もう一つ,写真をとることに無駄な感じがしていた.写真に限らず,何かを収集することに不毛さを覚えた.

 子供が生まれ一眼カメラを買った.オートフォーカス付である.子供の記録を残すことに意味を感じていたが,写真を撮ることそのものに意味を感じることはなかった.子供の写真が増えるのはうれしいが,写真が増えるのは不快であった.今年になってカメラを購入した.デジタル一眼レフである.1つの理由は,私が親にカメラを買ってもらったのが5年生であり,長男にカメラをさわらせてやろうと思ったことである.もう1つ理由は写真の趣味を再開しようと考えたことである.

 大人になって写真の趣味を再開したことで写真をとる理由がわかった.カメラを持っていると,どこかに行くのが楽しくなった.ちょっとした寄り道をするようになった.みんなで集まって写真をとるようになった.少し先まで行こうとするようになった.



大学の先生は結構面白い

2006年6月24日, 羽田空港12番ゲート前で


 私が小学生の頃,夏,朝3時に起きて,カブトムシ取りに出かけた.カブトムシ販売業者のおじさんとの競争である.捕まえたカブトムシは,大きな水槽に入れて飼っていた.土は,カブトムシを捕らえた林から戴いてきた土と枯れ葉,木工所の親父に頭を下げもらってきたおがくずを適当に混ぜて作った.餌は砂糖水に蜂蜜を入れたり黒砂糖を入れたり色々工夫をしながら作った.自分の食べたスイカや砂糖水をつけたキュウリをあげることもあった.うちの長男も去年の夏からカブトムシを飼うようになった.現在,土や木はスーパーマーケットで売られている.餌はカラフルな1口サイズのゼリーである.カブトムシを育てるだけでも,創意工夫の場,情報収集の場,社会勉強の場であったのだが,時代の流れとはいえ,残念な感じがする.

 ことし,ある人からカブトムシのさなぎをつがいで譲ってもらった.子供に脱皮を見せてやりたいという親心である.少し羽が曲がってしまったが脱皮し,成虫となった.次男に,「かぶお」と「かぶこ」と名付けられた.かぶおとかぶこは,スーパーマーケットで購入した土と木,そして,カラフルなゼリーを食べながら,水槽の中で過ごしていた.途中,私が団地の階段で拾ったコクワガタも加わった.かぶおは,成虫になる時期が早すぎたのか,梅雨入りする前に死んでしまった.長男はかぶおの死骸をどこかに埋めてきた.梅雨入りしてすぐ,かぶこも死んでしまった.長男は,次男をつれて,かぶこの死骸を埋めてきた.長男は,玄関で,私に,ゼリーの空の容器を見せて,「おそなえものをあげてきた」と言った.「前のお墓(かぶおの墓のことだと思うが)にもわけてきた」とも言った.私は「それはいいことをした」と長男に言った.私は,妻にそのことを言って,「教えたの?」と聞いたが,妻は「私はそんなことを言っていない」と言った.子供がいる家では,子供の意外な行動に,微笑ましい気持ちにさせてもらうことが時々あると思う.子供を育てるのは大変だけれども,そのような小さな幸せが時々家にやってくる.

 大学の先生をやっていると,学生との間でおなじようなことが,時々起こる(度々を望むが).私の創造を越える創造をしてくれる瞬間である.大学の先生の醍醐味である.大学の先生って結構面白い.